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2016年5月8日日曜日

同僚が語る「強く生きるということ」

前回のブログにも書きましたが、先週は【生きる強さ】を僕の同僚から教わりました。
先週の水曜日は写真の真ん中にいる日本からの友人が来てくれて朝からコーヒーツアーに行く予定でした。でも朝の早い時間に写真左の同僚からメールが来て、同僚の地元に連れて行ってくれるとのこと、急遽予定を変更して地元に行かせてもらいました。

ここからは同僚48歳の生涯を辿る素敵なツアーの始まりでした。フイエから車でないと行けないギサガラというエリアで、なんとレンタカーまでしてくれて(しかも自腹で!)案内してくれたのです。

①昔通っていた小学校へ
フイエの町から車で40分ほどしたところにある丘の上の小学校。英語で話しかけてくるほど結構頭の良い子な多そうな田舎の学校でした。
サンズという地域が彼の地元なんです。
みんな裸足なのがポイントですね、ここ一帯は貧しい地域だと彼も言っていました。でも、懐かしそうに、そして嬉しそうにここでこんな風に勉強したんだって語る彼を見てるだけでこちらも嬉しくなりました。

②実家があった場所へ
学校があったすぐ近くの丘の下を指差して、あそこら辺に家があったんだと語る同僚テオフィル。そこは彼の家族が一緒に住んでいた場所でした。「ジェノサイドで両親は殺され、兄も死に、家も崩壊された」と語る彼の目は寂しそうでした。計り知れない悲しみがそこにあるような気がしました。

③大学卒業後に就職した稲作組合へ
彼がジェノサイドを経験したのが26歳の時。当時彼は24歳で就職したばかり。それがここ写真の稲作地帯が広がる場所。勉強ができた彼は稲作組合でファイナンシャルマネージャーとして働き始めました。
ここが昔の俺の宿舎だったんだよーと話す彼。今はそこがそのまま事務所として使われていました。立ち寄っていろんな人に挨拶しながら旧交を深めている姿は、本当に喜びを噛み締めているよう。でも、彼が近くの稲作組合で働いている間に、両親含めた家族が殺されてしまったのです。やり切れない気持ちが物凄いあったはずです。

④生き残った家族が住んでいた昔の家へ
壊された家の後に、未亡人となった兄の嫁を支えるために彼はお世話を買って出たと言います。政府が未亡人のために建てた集落の一つがこの写真の家。そこに行って農作業などをして手伝ったと言います。
牛や鳥を飼い、野菜もたくさんなっていて、自給自足の生活ができているようでした。でも政府の与えた家は住みにくいようで、また違う場所に住んでいるとのこと。

⑤同僚が建てた生き残り家族や仲間の家へ
写真の家が彼が立て直した家です。その前は茅葺屋根の本当に昔のタイプのお家だったそう。
同僚の右に立ってるのが兄の嫁。他の人たちは周囲で暮らすコミュニティの人たちだそう。
子供も愛情たっぷり育ってました。
たくさんのウリなどの野菜が育てられており、それを少しずつ売って生活しているとのこと。アボカドなんて2つで50フラン(日本円で8円)にしかならないんだと語ってました。「ジェノサイドがあったけど、みんな地元から離れたくはない」と説明してくれました。悲しみが眠る場所でも、それでも頑張って生かされてる人生を全うしたいという気持ちの表れのようでした。
驚いたのはこの集まってくれたコミュニティの人たちの話でした。聞けば、「この中には家族を殺した加害者もいるよ」とのことでした。もちろん被害者の人も。「もう関係ないんだよ、みんな一緒に生きてる。彼らも罪を償うために頑張った。我々も、彼らを殺そうとすればできた。でも、そんなことをしたら、同じことを繰り返すだけなんだって分かっていた。だから助け合うこと、許すこと。どんなに大変だったかはもう説明できないけど、そうしてみんなが今生きてるんだよ」と語る同僚の目は本当に希望を目指した昔の努力が感じ取れました。

⑥中学校の友達を訪ねて
「おぉー、久しぶりだねー、元気だった?いやー、よかったよかった」と友達に地元で再会をしていて楽しそうだね、て僕が言った後に返ってきた言葉に耳を疑った。「おぉー、そうそう、彼はジェノサイドの時に加害者側だったんだよー。元気にしてたなー」、、、一瞬なんと言って良いか分からなかった。その前には「この村はほとんど虐殺時に全滅した」と語られていた。そして加害者を目の当たりにした自分。今ではそんな風には全く見えない大人しそうな人で、テオフィルともとても仲良さそうな雰囲気だった。そんなことがあるのか?これこそがまさに、隣人が、友人が殺人鬼になるという現実、そして現在に至っての【許す】という行為のリアルだった。
こんな平和な町でも色んな人がそこに関わっていたという事実。そしてそれは今になっても現実として痕跡を残しているということ。でもそれを生き残ったみんなが認めて前を向いているということ。

正直言って全然理解できなかった。

最後に農園や稲作地帯などを回り、地元巡りは終わりました。

【学んだこと】
虐殺の全ては客観的な史実でも統計的なデータでもない、主観的なリアルであるということ。

今までも少なからず感じてはいましたが、初めて身近な同僚に起きた現実と今の関係性を認識し、事の大きさと彼らの努力の背景を見れた。そして、同僚はわざわざ自分のお金を払ってまでレンタカーをして僕らを案内してくれた。

「ルワンダをもっと知ってほしい。自分のことをもっと知ってほしい」

そんな想いがあったんだろうなと察すると、なんか、ようやく同僚と打ち解けられた気がした。1年2ヶ月を共にしてきて、ようやく彼のことを知れた気がした。決して遡りたくない歴史も、包み隠さず教えてくれた。場違いな言い方だが、嬉しかった。
残された家族を支えるという使命を持って働いてる背景まで知り、しかも彼は自分の子供が3人もいるのに、兄の子供の大学費用も工面している。彼らが地元に帰ってきたのを見たコミュニティの人たちは本当に嬉しそうだったのが印象的だった。一家の大黒柱、大きな父ちゃんとしての彼の強さがよく分かった。

彼は、僕の中での生きるお手本になっていくでしょう。生きるって大変なこと、素晴らしいこと。そしてそれをしっかり使命を持って生き抜くこと。

当たり前かもしれないけど見失いがちなことを彼が教えてくれたのだと思う。ボランティアに来てからというもの、本当に自分は彼らから見習うことばかりだなって改めて思うのでした。

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